職歴

工事現場作業員

一番最初に働いた会社は、親類の会社でした。妹と母の面倒をみるために収入の確保をしなければいけないのと、自分を雇ってくれる所など無いと思っていたので、迷いなく入社しました。

仕事の内容は、建築物(マンション)の外壁に塗料を機械で吹き付ける仕事でした。今考えてみるとかなり厳しい仕事でした。朝は6時から起き、帰ってくるのは夜の10時頃、休みも1ヶ月1日も無し、という日もありました。

1缶20キログラムの塗料を両腕に持ち、現場を走り回っていました。体中に塗料がこびりつき、家に帰ってきてもグタグタにつかれて、外に出て行く気力もありませんでした。

私は、社長の親類という立場で会社に入ったので、周りの作業員の人達も、最初は距離をおいて付き合っていました。私は自分のコンプレックスから生意気な態度をとっていました。それが災いして、職場でいじめられるようになりました。

ある時など「お前はあそこにいる犬以下だ!」と怒鳴られ、悔しさとショックでいたたまれない時もありました。入社する時に「3年経ったら現場の仕事ではなく、別の仕事をしてもらう」と社長から聞いていたので、その言葉を頼りに頑張っていました。

しかし、3年経ってもそんな話しは一切ありませんでした。4年目に社長にその件で話をした所「お前なんか全然だめだ!ぜんぜん努力していないじゃないか!」と言われ、愕然としました。

自分を信じられなくなり、周りも信じられなくなりました。ただ、この会社にはいられないと思い会社を辞めました。それから職安に行き、仕事を探しました。妹達の面倒をみなければいけなかったので、一番給料がいい会社を選びました。

■自動販売機のジュースの補充

選んだ会社は、飲料販売会社でした。自動販売機に缶ジュースを詰める仕事です。「ねこ」と言われる縦長の台車に、一ケース24本入りの箱を14〜18ケース積んで自動販売機まで移動し補充していました。

体力的には全く苦痛はありませんでした。時間が早く終わる、休みがある、しかも給料もボーナスも前にいた会社より、高額でした。なぜ、あの会社にしがみついていたのかと、後悔するときもありました。

ただ、精神的には本当に苦痛でした。いつ首になるのか気が気ではありませんでした。自分のことが信じられず、お昼に休憩をとっているとき無性に不安になることもありました。

そんな不安と向き合うことができずに、常に何かを考えノートに書きつづっていました。仕事の最中でさえです。当然仕事の効率が悪くなり、そのことで余計、不安になったりもしました。休みの日には、精神的に参ってしまい、家でずっと寝ていることが多くなりました。

母が亡くなり、妹達の面倒をみなくてもよくなった時点で、自分の人生を真剣に考え始めました。「私はなにがしたいんだろう?」。その問いに対して「何がしたいかわからない、だったらいろんなことをやりながら、したいことを見つけていこう」そう思いました。

■披露宴司会者

雑誌をみていて、ある記事が目に入りました。「司会者養成講座」。私は、人と話すことにコンプレックスがありました。うまく人前で話せない自分が許せないと感じていました。人前で話せるようになって、しかも喜んでもらえそうな仕事。私はすぐに講座に参加しました。

講座の内容は楽しいものでした。内容が楽しいというよりも、一緒に学んだ仲間たちとのコミュニケーションが自分にとってかけがえのないものでした。この時に初めて学ぶ事の楽しさ、仲間の大切さを知りました。

講座を終了して、実際に披露宴の司会をするようになりました。司会を引き受けると毎回、後悔をしていました。「なんで引き受けてしまったんだろう・・・」当日の司会が終わるまで胃がキリキリしていました。

終わった後も「こんな司会で良かったんだろうか?」「もう仕事が来なくなるのではないか?」そんなことばかり考えていました。それでも司会の依頼があると、その時は嬉しくて引き受けていました。

■心理カウンセラー

披露宴の司会は土・日なので自動販売機のジュースの補充の仕事は続けていました。ただ、まだ自分のなかで満たされない思いがあり「私はなにがしたいんだろう?」と考え続けていました。

そこで目に留まったのは「心理カウンセラー養成講座」という記事。それまで、不安と向き合えなかった私は心理学系の本を、よく読んでいました。自分の心の問題に向きあっていくためにも必要だと思い、申込をしました。

心理学は私に新しい考え方を与えてくれました。それまでは比べるものがなく、何が正常で何が異常なのか、何が正しくて何が間違っているのか、どんな考え方が私に必要で、不必要な考え方は何か、私は学ぶことができました。

私は心理学に夢中になりました。自動販売機のジュースの補充の仕事を辞め、インターンとして働くようになりました。新しい心理学の概念を学ぶたびに、自分の事を許せるようになっていきました。

またカウンセリングを通して、悩んでいるのは自分だけではないこと、つらい経験をすれば不安に囚われしまうこと、それでも人は癒されていくことを、知ることができました。それは暗闇の中から、日の当る場所へ出て行くような感覚でした。

私が心理学から、カウンセリングから学んだこと。それは、誰も悪くないということ。罪があるとすれば人にあるのではなく、「無知」「知らないこと」が悲劇を起こす。知ることができれば、傷つけあわないですむ。知らないが故に傷つけ、知らないが故に否定してしう。知ることができれば、そこから抜け出し、許せる。

自分が「無知」であるという前提に立ち、「無知」を許し、知ろうとすることが癒しにつながっていく事を学びました。そして、自分が癒されていくのと同時に、強く人を喜ばせたいと思うようになりました。

もっと、自分の思うように学びたい、もっと色々な事を体験したい。私の中でやりたいことが膨らんでいきました。

■ブライダルプロデューサー

私はカウンセラーを辞めて、もう一度「何がしたいんだろう?」と自分に問いただしてみました。答えは見つかりませんでした。そんな時、ブライダルプロデュースをしている会社から声がかかりました。披露宴の司会は続けており、それが縁でした。

話を聞いてみると自分と同い年の人が社長をやっており、しかもオリジナルウエディングという当時では珍しい仕事でした。私はその会社に入社しました。仕事は私にとって初めてのことばかりでした。

新郎新婦との相談業務、教会・レストラン・ホテル・業者への営業、アルバイトの教育、業者への発注、披露宴当日の運営管理など、さまざまな業務を行ないました。特に新郎新婦に対しては一組平均10時間以上はオリジナルウエディングの内容を一緒に考えました。

「そもそも、なぜ披露宴をあげたいんですか?」そんな質問をしながら話を進めていきました。カウンセラー時代の経験を存分に活かすことができ、仕事は楽しいものでした。関わった新郎新婦の写真を撮って、披露宴が終わった後に写真にメッセージを書いてもらいました。

その写真をオフィスの壁に貼って眺めている時、幸せな気分に浸ることができました。ただ、仕事を続けていくうちに慣れが生じてきました。自分にとって単調な毎日の繰り返しのように感じてきました。

単調な毎日と、仕事量の増大、給料に対しての不満が日に日に募っていきました。そしてまたあの質問が浮かんできました。「私は何がしたいんだろう?」。私は会社を辞めました。

■電話オペレーター

やりたいことが分からず、転職雑誌をみていると18:00〜24:00の電話オペレータの仕事が目に留まりました。面白そうなのと、派遣社員で時給がよかったので働いてみることにしました。

仕事の内容は、事故を起こした人の電話を受付けて、事故現場情報をコンピュータに入力するという仕事でした。それまでパソコンにさわったことが無く、最初は入力を一本指でやっている状況でした。

事故を起こした人との電話対応は大変でしたが、多くを学びました。緊急のときに人はどんなコミュニケーションを取りがちなのか。その人に対してどう対応することが、一番適切な方法なのか。

特に、電話で相手が今いる場所を確認することは、慣れるまで大変でした。相手から言われた情報を元に、パソコンを使って位置を素早く確認する。もたもたしていると、事故を起こした相手から怒鳴られます。

しばらくすると、仕事にも慣れてきて、また考え始めました。「私は何がしたいんだろう?」

大手人材派遣会社 バイト→管理職

電話オペレーターの仕事は18:00〜だったので、昼の時間も何か仕事をしてみようと思い立ちました。新聞を見ていると「市場調査員募集」という記事が目に留まりました。時間は9:00〜18:00だったので、とりあえず面接に行きました。

その会社は派遣業界でもトップを争っている派遣会社でした。派遣というシステムを全く知らなかった私は、とりあえず簡単そうな仕事だと勘違いして、営業っぽい仕事にも憧れていたので、その会社で働き始めました。

仕事内容は、「飛び込み営業」そのものでした。マネージャーと3日間、飛び込み営業の同行をしてもらい、4日目からは1人で会社に訪問をしはじめました。ここから私の悪戦苦闘がはじまりました。

とりあえず、何の計画も立てずに3日ほど活動をしてみたところ、営業マンとしての洗礼を受けました。私「人材派遣会社のものですが・・・」、受付「結構です!」、私「・・・」。ほとんどの企業が名刺さえ受け取ってくれないありさまでした。

私が最初に担当した地域は、人口が10万人ぐらいで派遣を利用している企業は10社あるかどうかでした。それに、車で移動をしていて、到着するまでに75分はかかりました。私は18:00から電話オペレーターの仕事を続けていたので、仕事が終わるのを17:00に繰り上げてもらう契約をしていました。

やみくもにまわっていると時間だけが過ぎていき、訪問もできず、結果も出せないことは、はっきりしていました。私は「このままではまずい、首になってしまう」と思い、考えました。思いついたのは住宅地図を買い、事前にチェックをして、行動ルートを決めてから移動すること。

こうすることで、訪問件数がそれまでの3倍になりました。しかし、いくら訪問件数が上がろうとも、話を聞いてくれる会社はほとんどありませんでした。訪問を続けていくうちに、だんだん訪問恐怖症になっていきました。

訪問するのが辛かったので、電話でアポイントをとったり、ダイレクトメールを送ったりしましたが、ほとんど成果があがりませんでした。1ヶ月ほど成果が上がらない中で、他の支店の先輩から「新聞を読んだほうがいい」と聞きました。

私は「なんとかしないと本当に首になってしまう!」と思いとりあえず新聞を読み始めました。初めて日経新聞を買いましたが、書いてあることが全く分からず、ちんぷんかんぷんでした。それでも毎日読み続けていると、ある記事が目に留まりました。

「これって、今訪問している企業に関連している記事じゃないのか?」。私は訪問恐怖症になっており、どうやったら嫌われずに訪問できるかを常に考えていました。「この記事を持っていけば訪問理由になるんじゃないか・・・」

早速、記事をコピーして企業に持っていきました。すると、これまでと違って「ありがとう」と声を掛けられました。私はこれまで訪問をして「結構です!」「間に合ってます!」「今は必要ないです!」「他の派遣会社を利用しています!」という言葉を聞き続けていました。

「ありがとう」という言葉ほど、このときの私にとって有難い言葉はありませんでした。まさに「有り難い」有ることが難しい言葉でした。私は水を得た魚のように新聞を読み始めました。「ありがとう」という言葉に餓えていたのです。

新聞の種類が日に日に増えていきました。夜に電話オペレーターの仕事をしていましたが21時以降は電話の本数がぐっと減るので、その空き時間に新聞を読むようになりました。最終的には毎日新聞8紙、月にビジネス関連誌を5誌、購読するようになっていました。

企業に渡す新聞記事も大幅に増えて訪問も楽になり、それに伴い受注も増えていきました。その時に、このやり方を自分だけでやっているのはもったいないと思い、上司に許可を得て、他の支店に新聞記事を毎日FAXするようになりました。

また、バイトの身分だったのですが上司に頼み込み、1番売上げを上げている営業マンに同行をさせてもらいました。そこでは、驚くべきことが行われていました。アポイントは取らない、ダイレクトメールも送らない、新聞記事も持っていかない、やっていることはシンプルでした。

ただひたすら、訪問する。徹底的に訪問する。お昼の移動時間は、おにぎりを片手に運転しながら移動する。訪問した先では、しつこいくらいに相手から情報を得ようとする。訪問先では親しみと笑顔を忘れない。

営業の基本に忠実でした。私は戻ってくると3日間かけてこれまで訪問した企業のデータベースを作り、企業の優先順位をつけ、訪問先の情報を残らずパソコンに打ち込み、徹底的に無駄を削るようにしました。

当時、会社全体の売上げは1000億円ほどありました。私はバイトでしたが社長のお話が聴きたいと思っていました。というのも社長は全支店を訪問し、営業マンと同行をしていたからです。ただ、私の受け持ちの地域では社長と同行をして訪問できるような企業がありませんでした。

そこで、またむりやりお願いをして、社長が支店から支店へ移動する時に電車の中でお話を聴ける段取りを取ってもらうようにしました。社長からは色々なお話が聴けました。印象に残っているのは「なぜ、この会社はこれほど大きくなったのですか?」という私からの質問に対し

「はじめから大きくしようと思ったわけではなく、気がついたら大きくなっていました。理由は分からないけど、1つだけ言える事は、私は社員の人達に対して心から感謝できたということ。私のような人間についてきてくれるのは本当に嬉しかったし、感謝できた」

面談の時間が終わる頃、私は社長に名刺をせがみました。「本当は社員には渡さないんだけど・・・」私は名刺をもらうと社長にいいました。「ぜひ、名刺の裏に座右の銘を書いて頂けませんか?」社長は少し驚きながらも笑顔で書いてくれました。

「隣の芝生は青いけど 置かれた環境で一生県命やる」

このとき社長は私にこう言いました。「いっしょうけんめいのけんの字ってどんな字だった?」。私は「子会社」を「小会社」と書いてしまうぐらい漢字が苦手でしたので「わかりません」と答えたら「まあ、いいね」といって笑いながら名刺を渡してくれました。

私はこの時、社長のことを改めて凄い人だなと思いました。「1000億の売上げのある会社の社長が、アルバイトに分からない漢字を聞くことができる。会社が大きくなるのは個人の知識量よりも、もっと大切なものがあるんだ」この時は、そんなことを思いました。

仕事のやり方に慣れ、受注もコンスタントに入ってくると、またあの質問が頭をもたげてきました。「私は何がしたいんだろう?」。私はだんだん、仕事に意味を見出せなくなってきました。上司に辞める相談をしました。

すると、私の上司の上司から声がかかりました。「とりあえず、正社員になってみないか。そして私の直属の部下として働いてみないか?」私にとっては思ってもみないことでしたが、本当に嬉しい言葉でした。

正社員になる試験を無事に通過して、オフィスの場所も変わりました。私は思いっきり仕事をするつもりだったので、オフィスから歩いて帰れる場所に引越しをしました。これまで全く経験をしたことがない仕事が待っていました。

仕事の内容は「企業からの依頼があったとしてもノウハウが無いことによって、これまで断っていた特殊な仕事を請け負う」というものでした。私も経験が無く、社内の人達も経験をしたことが無い仕事をする。

私は「本当ににそんなことができるのだろうか?」と不安でいっぱいでした。そんな時、私に声を掛けてくれた上司がこう言いました。「お前の好きなようにやってみろ。責任は全部俺が持ってやる」。これまで生きてきた中で一番自分にとって嬉しい言葉でした。

私は上司に言いました。「1年後には派遣人数を0から100人、月の売上げを3000万以上にします」。何の根拠もありませんでしたが、心から信頼をしてくれた上司に対して精一杯答えたいという思いはありました。

それから私が始めた事は、ともかく社内、支店で働く社員の人達からの信頼を得ることでした。私に特殊な仕事の情報がまわってこなければ、仕事になりません。他の営業の人達が一生懸命外回りをしている時に、社内にいるのは大変苦痛でしたが、とにかく信頼を勝ち得るためになんでもしました。

営業拠点がが無い地域で派遣社員を活用した営業展開案、数十名の派遣社員が働いている企業でのモチベーション(やる気)分析レポートの作成、5名ほどのアウトソーシング(外部請負)案など、使えるものは何でも使い、少しずつ実績を積み上げていきました。

ある日、大手通信会社からコールセンターを作るという案件が持ち込まれました。詳しく話を聞きにいくと派遣社員を活用し、受付けブースは300以上あるとのことでした。しかも対応時間は朝から深夜に及びそうな時刻までの時間帯。

私は「ぜひ引き受けたい!」のと思うのと同時に「こんなの自分に出来る訳無い・・・」と思っていました。それでも上司の思いに答えるために資料を作成して、プレゼンテーションに挑みました。

結果は、受注。ライバル会社7社でプレゼンテーションを行ない、3社が受注をしました。1社は大手通信会社の関連子会社、他は大手の派遣会社と、私でした。契約内容の一部に「基本的な業務知識は派遣会社で教えてほしい」というものがありました。

私は困りました。派遣社員として電話オペレーターの経験はありましたが、コールセンターの仕組みは全く知りませんでした。そこで、社内でコールセンター業務を請け負っている他支店に行き、3日間研修をしてきました。

その後、大手通信会社から「5日間の研修をするので、派遣社員の研修担当者の人は研修を受けに来てください」と連絡が入りました。研修を担当してくれる人など誰もいなかったので私が5日間の研修を受けました。

研修内容は専門用語の解説から始まり、商品の種類、システムの使い方、電話対応の仕方まで広く深いものでした。私にとってかなり分かりにくく、これをそのまま伝えてもうまくいかないだろうと直感的に思いました。

そこで、5日間の研修内容を派遣社員にとって分かりやすいものに作り替える作業が始まりました。と同時に、大手通信会社から100ブースが割り当てられました。100ブースといっても仕事の時間帯が長いため、実際に必要な派遣人数は200名は必要でした。

そこで、急遽、派遣社員の募集もしなければなりませんでした。広告の内容の立案から始まり、登録方法の立案、説明会の実施、面談、採用の判断、採用の連絡、研修の案内、5日間の研修の講師、派遣社員のシフト組み、大手通信会社・派遣社員からのクレームの対応まで、ありとあらゆる仕事がいっぺんに降ってきました。

私はほとんど休まず、朝の7時から深夜0時頃まで働いていました。上司から「仕事をするな」と言われた時もありました。徐々に派遣人数は増えていきましたが様々な問題も発生してきました。私1人では抱えきれるわけもなく、私の下で働く部下が1人、また1人と増えていきました。

そんな中、その大手通信会社の別部門から、別の依頼が来ました。「20名の営業部隊を派遣社員で作ってもらい、教育・管理も含めて全部任せたい」といったものでした。コールセンターの派遣人数は120名ほどで200名には至っていませんでした。

部下を3名に増員して、営業部隊の案件を引き受けることにしました。まず始めに困ったのは場所でした。20名の営業部隊が働く場所を新たに増設すると、赤字になってしまうことが分かっていました。

そこで考えたのは、5名ほどしか入れないミーティングルームを仮説オフィスにして、全体のミーティングは大会議室を間借りしながら行なおうというものでした。とりあえずの場所が確保できたので実際の採用活動に入りました。

コールセンターへの派遣の時に経験をしていたので、採用・教育はスムーズに行なえました。問題は、営業部隊の管理(マネジメント)でした。採用した派遣社員は下は新卒の22歳から上は64歳まで。私はその時31歳でした。

2/3以上の派遣社員が私より年上の方達でした。私はどうやったら実績が上がるか真剣に考えました。1番困ったことは営業成績1番の人と最下位の人とでは20倍の開きがありました。それでも、派遣社員のため時給はかえられません。

このままでは、成績を上げている人がやる気を失ってしまう・・・。私はさまざまな方法を試しました。毎日の結果をグラフにして張り出す、成績がトップの人と最下位の人は同行をしてもらう、社外ミーティングを積極的に行なってもらうなど、思いつくことは全てやりました。

派遣スタッフのリストラも行ないました。全く成績が上がっていない、他のスタッフから聞いても積極的に動いていないという声が聞こえてくるスタッフに辞めてもらったのです。部隊のモラルの維持のために辞めてもらいましたが、まさに身を切る思いでした。もう2度とこんなことはしたくないと感じました。

色々なことがありましたが、私が受け持っていた営業部隊は、他の派遣会社の営業部隊と比べても遜色のない結果を出すことができました。それと同時に、追加で30名の派遣社員増員の依頼がありました。

コールセンターと営業部隊の増員で手狭になったこともあり、上司から新しくオフィスを作ろうという打診がありました。私にオフィスのデザインも任せてもらい、その時はとても嬉しく思いました。

気がつくと、コールセンター200名、営業部隊50名、月間の売上げが7000万ある大所帯になっていました。それと、同時に私が抱える問題も大きく複雑になっていきました。

1番辛かったのは、誰も喜んでいないことでした。私も、派遣スタッフも、依頼主も、部下たちも、みんな疲れていました。私は何かが違うと感じていました。そこには笑顔がありませんでした。

私を信頼してくれた上司に対して約束を果たしたという思いと、これまで夢中になってやってきた仕事は売上げがあっても笑顔がないという思いに、私は限界を感じました。そして上司に「辞めてもいいですか?」と訪ねました。

上司は「お前が本当に辛くて辞めたいんだったらしかたがない、辞めてもいいよ」と言ってくれました。私はその言葉を、感謝と申し訳なさの入り混じった気持ちで聞いていました。

予備校講師(政治経済・現代社会)

それからしばらくは、何もできませんでした。正確にいえば、あえて何もしないようにしていました。人から認められるために役割で生きてきた自分をやめなければ、また同じことが繰り返されると思ったからです。

何もしない中で少しずつ癒されていくうちに、また何かやりたいと思いはじめました。肩書きに「自遊人」という名刺を作り色々な交流の場に足を運んでみました。ある勉強会のグループに参加し主催者と仲良くなりました。

その人から、何か講義をしてみないと言われ「得する会社の辞め方」という講義を冗談半分でやらせてもらいました。講義を聞いていた中の1人に、予備校で働いている人がいました。講義後に参加者で食事をして、その日は何事もなく終わりました。

後日、予備校の人から連絡が入り、試験監督などの仕事を依頼されるようになりました。予備校にちょくちょく出入りするようになり、ある日「現代社会と政治経済の講師をやってみない?」と声を掛けられました。

私は面白そうだと思い、二つ返事で「やりますよ」と言ってしまいました。何も考えてなかったので後から心配になってきました。とにかく高校の教科書、参考書、センター試験の問題集を買いこんで勉強をはじめました。

新聞を読んでいたときから、政治・経済のことはさっぱり分かりませんでしたが、強い興味を持っていました。予備校の人が言っていました。「勉強はお金を払ってするものじゃないよ。お金をもらいながらするものだよ」。私はつくづくその通りだなと思いました。

毎回、授業の前の日は徹夜でした。90分の授業をするのに12時間以上は時間を掛けて講義内容を作っていました。その予備校では毎期ごとに生徒からのアンケートを取っていました。私は結構、自信がありました。

しかし帰ってきた結果は、惨たんたるものでした。私はかなりショックを受け、どうすればいいいのか、真剣に考えました。確かなことは私が提供しているものと生徒が求めているものが違うという事だけでした。

私は大学受験の経験もなく、現代社会・政治経済を素晴らしい先生から学んだ経験もありませんでしたので、他の先生に聞きまくってみました。その結果、気づいたことがありました。「90分の中で詰め込みすぎてはいけない」

私はそれまで、限られた時間の中で必要な情報を全て、生徒達に伝えようとしてきました。生徒達がどれだけ受け取れるかを考えるだけの余裕がなかったのです。一言でいえば生徒達とコミュニケーションをしていませんでした。伝えることで精一杯だったのです。

それから私はどうすればいいか考えてみました。同じ教科を教えている先生からも詳しく講義方法など聞き、授業に参加させてもらったりもしました。その結果、私の出した答えは「授業のなかで全てを伝えきるのは不可能だ。大切なのはこの教科に興味をもってもらうことだ」

「自分だって興味があるから、面白いから、講師をやっているんだもんな」私はどうすれば興味を持ってもらえるか考えました。「なぜ、自分は政治経済の講師をやろうと思ったんだろう?」そう思ったとたん閃きました。「そうだ、新聞を使おう!」

私は以前、新聞を読んでいて政治・経済記事の意味が分からなかったことを思い出しました。「もし、新聞記事を分かりやすく、面白おかしく解説することができれば絶対に興味が湧くはずだ!」

それからの授業は、毎回当日の新聞記事を切り抜き、授業の始めに生徒達に説明をするようになりました。これまで眠そうだった生徒達の顔に興味のある目や笑顔が戻ってきました。新聞の解説を聞きたいために授業に出てくる生徒もいました。

1番嬉しかったのは、授業の最終回の頃にある生徒が模試の結果を見せに来た時でした。「先生、41も上がったよ!」と大喜びで話す生徒に「41点も上がったなんて凄いね!」と答えたら「違うよ、違う!」と生徒は言いました。

「先生違うよ、偏差値が最初の頃より41も上がったんだよ」。私はびっくりしました。その生徒はいつも1番前の席で、真剣に私の授業を聞いていたのです。私はてっきり出来る子だと思っていました。

話を聞いてみると、最初に受けた模試の偏差値が26で「これは真剣に勉強しなければまずい」と思っていたとのことでした。最新の模試で私がまとめたプリントを集中的に勉強し、67まで偏差値が上がり、私に報告をしに来てくれたのです。

私は4クラス120名前後の生徒を教えていましたが、1人でも役に立てた生徒がいたことに、心から満足できました。それまで、「本当に私は役に立っているのか?」という思いがありましたが、この生徒のお陰で心が軽くなりました。

■大学講師(就職対策・教職員対策)

予備校の授業と同時に、大学での就職対策講座、教職員対策講座の社会科学分野の講師の仕事を請け負うようになりました。私は大学で学んだことが無く、大学に強い憧れを抱いていました。

いずれ自分が学びに行きたいとも考えていました。そんな自分が大学で講義をしていることは最初の頃、違和感がありました。ただ就職に対する思いは、私なりに考えていることがあったので、少しでも役に立てばと思い仕事をしていました。

就職対策講座の講義をしていて強く思ったことは、やりたいことが分からない学生の多さでした。私自身これまで、自分が何がしたいのか探し続け、迷い続けてきましたが、目の前にも同じように悩んでいる人達がいる。

この人達のために少しでも役に立てればと思い、履歴書対策講座、エントリーシート対策講座、グループディスカッション対策講座、集団面接対策講座、個人面接対策講座などをしてきました。

派遣会社で一連の採用活動を経験しているのと同時に、さまざまな職業を経験してきたので、採用担当者としてどう感じるのかを意識しながら講義を進めました。また、いまだにやりたいことを探し続けている者としての視点も大切にしました。

約2年の間に14大学で44回(教職員対策講座を含めて)講義をさせてもらいました。私の中である思いが膨らんでいきました。「個人個人と話がしたい・・・」。大勢の人数の前で伝えられることには限界がありました。

私は、どうやったら個人と話ができるのか真剣に考えはじめました。

■起業 現在に至る

派遣会社を辞めた時から、というより派遣会社の社長のお話を聴けた時から起業をする事を決意していました。ただ、自分に何が出来るのか、本当は自分が何がしたいのかは明確になっておらず、ずるずると先延ばしになっていました。

これまでの一連の経験から、自分が本当は何をやりたいのか少しずつ明確になっていきました。私が本当にやりたかったことは、私自身を喜ばすこと。私が何をした時が1番喜べるのかといえば、私と同じように「自分は何がしたいのか?」と思っている人と関わり、その人の役に立てた時。

その時の喜びを共有することで、自分自身が今ここにいる意味を見出せる。私の中に拭い去れない悲しみや怒り、絶望があったとしても、あるからこそ、目の前の人に真剣に関わっていこうと思える。そんなことを仕事にしたいと考えるようになりました。

そこで、とりあえず形を作ってしまおうと思い立ち、2002年の6月に会社を立ち上げました。初めはどうやって形にしていいのかわからず、右往左往していました。少しずつですが、夢が形に変わりはじめています。

もし、あなたが今「自分は何がしたいのか?」と思っているなら、それはあなたがあなた自身を求めはじめているメッセージかもしれません。のどが渇けば水が欲しくなるように、自分の心を満たさなければ、心は渇いてくるでしょう。

そんな時は、小さな小さな心の声に耳を傾けてください。そして、許される範囲で自分の心を満たしてあげて下さい。もしかしたら、自分にとって大きな選択へとつながっていくかもしれません。

今いる場所が、自分を活かす場所なのか、自分を失う場所なのか。私はいつも私自身に責任があると思っています。「自分を日のあたる場所に導く責任があると」。もし、私になにかお手伝いできることがあれば声を掛けて頂ければと思います。

「無職」から「夢職」へ・「転職」から「天職」へ。私はこれまで「やりたいこと」を仕事にしてきました。そして今、あなたの「やりたいこと」に就職をするお手伝いをしています。


トップページに戻る